演技の喜びを探求する、俳優・声優養成所「ヴォイス&アクターズ道場」

こんな時の話(玉腰裕紀)

こんにちは。土曜クラスの玉腰です。
これを書いてるのが2月27日なのですが、
今週末、以前の野外劇の演出さんがやる舞台を見に行く予定でした。
しかし、残念ながらウイルス騒ぎで中止に。
僕はただの客ではありましたが、無念でなりません。

最近演劇関係者とか元共演者とか、そう言った方のTwitter覗いたりしてますが、
どこも似たようなもんで。あちこちで嘆きの声が聞こえてきます。

恨み言になるんですが、こういう時に真っ先に排除されるのって
いつだって演劇とかライブみたいなエンタメな訳で。
いや実際不要不急な存在ですけどね。
無くなったって社会的に困らない所を切るのは当然と言えばその通り。
ですけどね、それで救われてる人だって居るんです。
その為に生きてる人だって居るんです。
そもそも興行で経済活動やってる人だって大勢居るんです。
そうですか自業自得ですか。そもそも今回の件で言えば流行って以降も
こんだけ皆を満員電車に乗せといてこう言うのだけ自粛要請って何なんですか。

個人的な話ですが。僕は以前引きこもりだった時期があります。
1年半位でしょうか。その当時や、今でも支えてくれてる人への無礼を承知で言えば、
立ち直る直接のきっかけをくれたのはたった1人の路上歌手でした。
今はもっと大きいところでご活躍してるそうですが。
あの人が居なければ今の自分は多分存在しませんし、
そのときに感じた感覚が今でも考えの根っこにあります。
エンタメで社会を変えるのは無理でも、一人の観客を揺さ振る力はあるし、
そう言う存在になりたいと思いました。今もそう。

人生におけるお楽しみ要素を削ってでもどうにか経済は回してくれ
仕事だけはしてくれって理屈はまあ分かるんですけどね。
全員がテレワーク出来るわけでなし、かと言って
全員が自宅待機すればみんな餓死しますしね。分かっちゃいるんですけどね。
どうにもやってらんねーぜ☆って、そんなお話です。




【主宰からひとこと】
今この瞬間も芸能に携わっている人の多くが
深い無力感に襲われているのだと思います。
演技することに何の意味があるのだろうという無力感。
観たいという方がいてくれるにせよ、演技を見せるという行為に
一体どんな価値があるというのか・・・
東日本大震災の時に、僕も悩みました。

「どんな晩でも少なくとも一人、生まれて初めて芝居というものを観て、
そのために人生に対して新しい考え方を持つようになる人が劇場のどこかに座っている。
その人のために全力を尽くせ。上がってなどいられない。」
井上ひさし作「紙屋町さくらホテル」での丸山定夫の台詞です。
立ち直るきっかけになりました。
それからはずっとお客様に「(辛いのは)私だけじゃないんだ。」と感じてもらうために
自分は生かされているのだと思っています。

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